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築城は南北朝時代、赤松則村(円心)が姫路山上に

築城は南北朝時代、赤松則村(円心)が姫路山上に築いた称名寺をもとに、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城説が有力である。室町時代の1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱で山名氏は細川氏が対立し力を弱め、細川方についた赤松氏が播磨を奪還した。

16世紀前半、御着城(現在の姫路市御国野町御着)を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入った[11]。重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている[12]。

1573年(天正元年)まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子職隆、孫の孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。

1576年(天正4年)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。

1580年(天正8年)、黒田孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言した。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行なった大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに(三層と伝えられる)天守を建築した。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、姫路の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町(たちのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀(あが)落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある[13]。
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1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人への地位を駆け上っていく。このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。替わって木下家定[14]が入った。

1601年(慶長6年)、木下家定は備中足守に2万5,000石で転封、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康の意を受けて1601年(慶長6年)から大改修を行ない、8年掛けて広大な城郭を築いた。普請奉行は池田家家老伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 - 5千万人であろうと推定されている[8]。

現在の城郭は、関ヶ原の戦いの後、家康が(豊臣恩顧の大名が多い)西国を牽制する目的で築かせた城である。城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので、担当する大名が頻繁に交替している。

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2009年03月18日 13:06に投稿されたエントリーのページです。

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