2009年06月22日

生物圏とされているほぼ全ての環境に分布する

生物圏とされているほぼ全ての環境に分布する。通常の土壌や湖沼はもちろん、上空8000mまでの大気圏、熱水鉱床、水深11000m以上の海底、南極の氷床などといった、我々には生育困難な環境からも生育ないし存在が確認されている。ただし、高温、酸性、高NaCl、高圧力への適応は古細菌の方がやや優れる。また、生育には必ず水分が必要であり、乾燥に対してはきわめて弱い。しかしながら一部の細菌は芽胞という乾燥に強い形態をとり、風や水などで容易に伝播されるので、結果として人工的に作り出さない限りは細菌の存在しない状態を得ることは困難である。

また多細胞生物体内部や表面にも多数の細菌が付着ないし生育している(共生)。ただし、健康な生物体の血液中、筋肉、骨格など消化管以外の臓器からはほとんど検出されず、無菌に保たれる。消化管においては食物の分解プロセスの一部を担っている。このような共生の例はルーメンやマメ科植物の根圏における窒素固定菌の共生などに見ることができる。
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生物量(バイオマス)も相当量存在すると考えられており、土壌4000m2あたり2トンの微生物(真菌、古細菌含む)を有していると考えられている。また海洋においては、栄養状態にかかわらず1mlあたり50細胞程度の真正細菌が存在しており(沿岸や生物の死体周辺ではmlあたり105細胞以上生息している)、海洋ひとつとってみても地上の真核生物量をはるかに凌駕する計算がなされている。

大きさはおおむね0.5-5 μm程度であり、古細菌と同規模で真核生物よりは一桁小さい。桿菌の中で長いものは15 μmほどになる。

外観は古細菌に酷似し、かなり倍率の高い光学顕微鏡で観察しても球菌や桿菌は古細菌と殆ど見分けが付かない。最大の真正細菌Thiomargarita namibiensisは最大750 μmにも達し、肉眼でも見える。その他らせん菌など様々な形態が観察されている。桿菌ではしばしば細胞壁が連なって長大な糸状になる。多細胞生物のような複雑な高次構造を持つものはいないが、群体や菌糸を形成するものもいる。

2009年06月04日

カルケドン信条

カルケドン信条(カルケドンしんじょう)とは、キリスト教の信条の一つ。カルケドン公会議によって定められ、カトリック教会、正教会、プロテスタント教会(特に長老派・改革派教会などの主流派)の間で承認されている。
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われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。
われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。
同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。
同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである」[1]
神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母[2]、処女マリアから生まれた。
彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、
二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。
子の結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、
唯一の位格[3]、唯一の自立存在[4]に共存している。
彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、
唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである。


2009年05月01日

畿内では淀川水系

畿内では淀川水系の治水と同時に、大和川付け替えの跡地や大阪湾岸の河口の浅瀬で次々と商人による新田開発が行われた。大阪平野の多くの土地はこの時期に水辺から陸地になった場所が多く、こうした新田の名には開発した商人の名がつけられ、現在でも土地の地名に商人の名に由来するものが多く残っている。(例:鴻池家が開発した鴻池新田など)これら新田には「会所」(かいしょ/かいじょ)と呼ばれる管理事務所があり、小作人からの年貢米徴収・貯蔵や、新田の堤防・水路などの維持管理業務、役人への応対などを行っていた。

享保の改革を受けた商人たちによって、越後国の紫雲寺潟(しうんじがた、新田開発の中でも日本最大級のもの)や、濃尾平野の木曽川河口部でも、大規模な町人請負新田の開発が行われた。木曽川下流域は多くの水路が引かれ扇状地が水田になったほか、河口の干潟が次々干拓されて水田に変えられていった。もっとも、木曽川はすさまじい水害で知られる川だったため、住民は輪中を築いて対抗することになる。
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関東平野では17世紀以降に利根川など大河の流れが、水害防止や水上輸送の便のため大きく付け替えられ(利根川東遷事業)、これに合わせて農民や幕府、藩の手で旧河道や沼地、丘陵地などの新田開発が行われた。代表的なものは、代官や勘定所など幕府官僚による「飯沼」や「見沼」、「椿海」といった巨大な湖沼の干拓・新田化や、武蔵野の土豪による丘陵地での新田開発。小宮山杢進による、下総小金牧周辺の原野新田の開発などがある。それまで雑木林や湿地帯などの荒地だった関東平野の多くは、江戸時代以降急速に農地化した。また丘陵地の新田開発のために玉川上水ほかいくつもの用水路が建設された。

2009年04月16日

ナポレオン・ボナパルト

ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte, 1769年8月15日 - 1821年5月5日)は革命期フランスの軍人・政治家で、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世(Napoleon I, 在位:1804年 - 1814年、1815年)。音訳漢字表記は拿破崙。古くは日本では奈破翁と表記された。イタリア系コルシカ人。

革命後のフランスをまとめあげ、帝政を敷き、ナポレオン戦争と呼ばれる戦争で全ヨーロッパを侵略し、席巻するも敗北し、その後ヨーロッパの秩序はウィーン体制に求められた。当時のイギリスの首相ウィリアム・ピットは、「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」とナポレオンを評した。一方でゲーテは「徳を求めたもののこれを見出せず、権力を掴むに至った」と評している。

今でもフランスを代表する英雄として抜群の知名度を誇る(彼を独裁者とみる向きもあり、反ナポレオン派も少なくないという)。
生い立ち [編集]
1769年、コルシカ島のアジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテ(フランス名シャルル・マリ・ボナパルト)と母マリア・レティツィアの間に、夭折した子供を除く8人の子供のうち2番目として生まれた。出生時の名前はナブリオーネ・ブュオナパルテ(コルシカ語: Nabulione Buonaparte)といい、ナブリオーネが姓をブオナパルテ(Buonaparte)からフランス風のボナパルト(Bonaparte)へと、名をナポレオンへと改称するのは、フランスで出世し始めてからのことである。

ブオナパルテ家はイタリアのロンバルディア州に起源を持つ古い地主であった。コルシカ島で判事をしていた父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争の指導者となるパスカル・パオリの副官を務めていたが、フランス側に転向し、この事によってフランス貴族と同じ権利を得た。そして身分とフランス本土への足がかりを得て、父カルロはナポレオンとナポレオンの兄ジュゼッペ(フランス名ジョゼフ)を連れてフランス本土に渡った。

ナポレオンは初め修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、すぐに国費で貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校に1779年に入学し、数学で抜群の成績をおさめたという。1784年にパリの陸軍士官学校に入学。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった。大砲を使った戦術は、後の彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11ヶ月で必要な課程を修了した事を考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11ヶ月での卒業は開校以来の最短記録であった。

この時期のエピソードとして、クラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話があり、このころから指揮官としての才能があったことが窺える。才覚の片鱗を見せる一方で、幼年時のナポレオンは、読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』に傾倒し、おとなしい性格だったという(コルシカ訛りを聞かれるのが嫌で無口になっていたともいわれる)。

軍人ナポレオン [編集]
1785年に砲兵士官として任官。1789年、フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていく。そうした中、ナポレオンは1792年に先のコルシカ独立戦争でコルシカ側が敗北したことによりフランス領となっていたコルシカ島に配属され、アジャクシオの衛兵隊中佐となるが、英国に逃れている独立派指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンと縁戚関係にもあるポッツォ・ディ・ボルゴらによってブオナパルテ家弾劾決議を下され、ナポレオンと家族は追放に近い逃避行によってマルセイユに移住することとなった。

マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄ジョゼフは、クラリー家の娘ジュリーと結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘デジレと恋仲となり、婚約する。この頃ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ポーケールの晩餐』を著して、当時のフランス政府(革命政府)の中心にいた有力者ロベスピエール等の知遇を得ていた(この小冊子はのちに、ロベスピエールとジャコバン派の独裁を支持するものであるとして、後述するナポレオン逮捕の口実ともなった)。

1793年、国民公会の議員の推薦を受け、ナポレオンはフランス軍大尉としてトゥーロンに赴任し、ただちに少佐に任命される。当時の欧州情勢としては、「フランス革命政府」対「反革命側(+市民革命の波及を恐れる第一次対仏大同盟諸国)」の図式があり、港町トゥーロンにはイギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御陣を敷いていた。革命後の混乱で人材の乏しいフランス革命政府側は、港への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害をこうむっているような状況であった。ここでナポレオンは、まずは港を見下ろすふたつの高地を奪取して、次にそこから敵艦隊を大砲で狙い撃ちにする、という作戦を進言する。司令官のデュゴミエはこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ(トゥーロン攻囲戦)。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により、当時24歳の彼は一挙に少将へと昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。また国民議会は政府の使節フーゴ・バスバイユが殺された事件をきっかけに教皇領に侵攻する決定を下すが、ナポレオンはこのとき司令官に任じられており戦いでも勝利をおさめた。

1794年に革命政府内でロベスピエールがテルミドールのクーデターで失脚して処刑され、ナポレオンはロベスピエールの弟オーギュスタンと繋がりがあったことなどにより逮捕、収監された。短期拘留であったものの、軍務もはずされ休職状態となってしまった。

しかし1795年、パリにおいて王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)が起こり、これに手を焼いた国民公会軍司令官ポール・バラスによってナポレオンは軍に再び登用され、首都の市街地で大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法をとり鎮圧に成功。これによってナポレオンは中将に昇進、国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとった。

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2009年04月02日

クララ

クララ(眩草/苦参、学名:Sophora flavescens)はマメ科の多年草(シノニムSophora flavescens var. angustifolia)。
ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ

特徴 [編集]
本州、四国、九州の日当たりの良い草原などに自生する。高さ50~150cm。花期は6~7月。茎の先に薄黄色の総状花序をつける。

名前の由来は、根を噛むとクラクラするほど苦いことから、眩草(くららぐさ)と呼ばれ、これが転じてクララと呼ばれるようになったといわれる。日本では草原環境が農業形態の変化によって衰退しているため、自生地がかなり減少しており、これのみを食草とするチョウのオオルリシジミはかなり希少なものとなっている。

根は、苦参(くじん)という生薬であり、日本薬局方に収録されている。消炎、鎮痒作用、苦味健胃作用があり、苦参湯(くじんとう)、当帰貝母苦参丸料(とうきばいもくじんがんりょう)などの漢方方剤に配合される。また、全草の煎汁は、農作物の害虫駆除薬や牛馬など家畜の皮膚寄生虫駆除薬に用いられる。

全草有毒であり、根の部分が特に毒性が強い。ルピナンアルカロイドのマトリンを含み、これが前述の薬効の元であるが、薬理作用が激しく、量を間違えると大脳の麻痺を引き起こし、場合によっては呼吸困難で死に至る。素人が安易に手を出すのは非常に危険である。

なお、延喜式には苦参を紙の原料としたことが記されているが、苦参紙と呼ばれる和紙が発見された例が存在せず、実態は不明である。

2009年03月18日

築城は南北朝時代、赤松則村(円心)が姫路山上に

築城は南北朝時代、赤松則村(円心)が姫路山上に築いた称名寺をもとに、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城説が有力である。室町時代の1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱で山名氏は細川氏が対立し力を弱め、細川方についた赤松氏が播磨を奪還した。

16世紀前半、御着城(現在の姫路市御国野町御着)を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入った[11]。重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている[12]。

1573年(天正元年)まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子職隆、孫の孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。

1576年(天正4年)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。

1580年(天正8年)、黒田孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言した。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行なった大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに(三層と伝えられる)天守を建築した。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、姫路の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町(たちのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀(あが)落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある[13]。
フィーバー プレイン ニソガラ てっさく ヒット ロイター 花いちもん スダコタ まんば 甘露国内 ダウト 茜色の約束 イコン デジポ 田園列車 ライプチヒ スキャ ジンビター ププス セレナーデ チガヤ ジャスト ドライカ サンカ デッド 場春夢 スーパー カジスカ ピアサポト マンボウ モンド クロミッド タロミクス せっせっせ レーン ナイト いまさく リース あずきいろ カートリ チューハ レビュ フィン ふすまえ シャブシ カーソル ベロニカ キャリ バビロニ キャラ

1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人への地位を駆け上っていく。このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。替わって木下家定[14]が入った。

1601年(慶長6年)、木下家定は備中足守に2万5,000石で転封、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康の意を受けて1601年(慶長6年)から大改修を行ない、8年掛けて広大な城郭を築いた。普請奉行は池田家家老伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 - 5千万人であろうと推定されている[8]。

現在の城郭は、関ヶ原の戦いの後、家康が(豊臣恩顧の大名が多い)西国を牽制する目的で築かせた城である。城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので、担当する大名が頻繁に交替している。

2009年03月03日

伝説巨神イデオン

地球人類が外宇宙へ移民を開始して50年経過した遠い未来、地球人は2年前から移民を行っていたアンドロメダ星雲の植民星A-7・ソロ星で、外宇宙への移民開始から6度目の知的生命体の発見として「第6文明人」と呼ばれる遺跡である巨大人型メカ「イデオン」を発掘する。

一方その時、伝説の無限エネルギー「イデ」の探索のために、「ロゴ・ダウ」(=ソロ星)を訪れた(地球人類が「第7文明人」と呼ぶ事になるはずだったであろう)異星人バッフ・クランと、地球人の移民が接触。さらに、無思慮な行動で本隊より離れたバッフ・クランの貴人カララ・アジバを捜索に出た下級兵士の発砲と、両者の疑心暗鬼により武力衝突へと発展する。

主人公ユウキ・コスモらは戦いを終結するべく「戦意は無い」ことを示すために白旗を上げるが、バッフ・クラン社会でのそれは「お前らを地上から抹殺する」という逆の意味だったため、事態はさらに悪化することとなる。地球人たちはイデオンで応戦しつつ、同じく発掘された宇宙船ソロ・シップに乗り込み宇宙へ逃れる。だが、その遺跡にこそバッフ・クランの探し求める無限力「イデ」が秘められており、カララを乗せたソロ・シップの脱出により、事態は局地紛争から星間戦争へ進展してしまう。安息を求めソロ・シップは地球人側の移民星に逃げ込むが、バッフ・クランは執拗な追跡の手を休めない。道中に様々な人間模様が繰り広げられ、艦内に不和を抱えたまま宇宙を逃走し続けるが、次第にイデオンとソロ・シップに異変が起こり始める。
本作はトミーのテレビキャラクター第4弾にあたる『科学冒険隊タンサー5』の後継番組として企画された。トミーとサンライズが組んだ作品としては第2作になる。

サンライズ企画室からの発注により、メカニカルデザインのサブマリンがイデオンのデザインをした。サンライズはイデオンのデザインでトミーにプレゼンテーションをし、OKが出た。企画が始動し、富野が作品に参加した。

このようにサンライズの作品は基本的にマーチャンダイジング先行で、ロボットのデザインから作品がスタートする。これに富野が反発。(後に富野は本作を「制作者とかスポンサーに対して嫌がらせで作った」と述べている。マーチャンダイジング先行ではない『機動戦士ガンダム』の直後だったのも富野が反発を強めた一因のようである)。

こうした反発から富野はイデオンのデザインを見るなり「これは第六文明人の遺跡です」と言った。富野によれば「でなければ、こんな酷いデザイン誰が使います?」[3]。富野曰く、日常の延長といった性質を消すためにサイズを巨大にした(=第6文明人を巨人に設定した)、と後に語っており、作品がハード路線になったのもイデオンのデザインに堪えうるだけのパンチ力のある展開を目指した結果であると証言している[3]。アニメ監督としてはむしろ「イデオン自身が障害」[3]であり、企画から間違っている物を売れるようにする為必死でやったとの事。その結果、小説家の福井晴敏がBSアニメ夜話に出演した際「いや、あれは遺跡にしか見えない」と語ったようにある種特異な世界を生み出す事には成功している。

もっともこのような反発を持ちながらも富野は仕事をしっかりとこなす姿勢も見せており、1980年1月13日付けの富野のメモにはイデオンの玩具のギミック[4]を作品に取り入れることや旧作である恐竜シリーズの流れを取り入れることなどの記述がある[5]。

キャラクターデザインには『無敵鋼人ダイターン3』でコロスを描き、富野に賞賛された湖川友謙が採用された。富野は「湖川の"女"の部分がほしいと思った」と述べている[5]。

TV放送中の評価
本作は、すでに一定層が存在した中学生以上のアニメファンを視聴対象に含めていた。そのためオープニングテロップには掲載雑誌として、学童以下向けの学習雑誌の他に、「アニメージュ」「ジ・アニメ」「OUT」「アニメック」「月刊アニメーション」のアニメ雑誌各誌が記載されている(現在も他に例がない)。アニメ業界出身の杉山卓は放映中に執筆した『青春アニメ・グラフィティ―テレビ編』(集英社コバルト文庫、1981年)の中で、ロボットアニメの枠を超えた高度な内容を盛り込むことを目指すとスタッフが公言していた本作の制作姿勢を高く評価し、ぜひそれを押し通して成功してほしいとエールを送っている。

しかし、SFファンを中心とする10~20代の層の一部からは高い評価を得たが、一般層に受けたとは言い難かった。ストーリー中盤から放送枠がゴールデンタイムに移行したが、視聴率は低下。トミー(現・タカラトミー)やアオシマ等から発売された関連商品である玩具等の販売が振るわなかったため、全43話の予定が第39話で打ち切られた。

また当初よりアニメファンからは「ポストガンダム」として注目されていたが「登場人物が容姿・性格ともに(当時としては)アクが強い。」「主人公のライバルであるギジェ・ザラルがシャアに比べて負けている。」などと、ガンダムと比較しても大きなブームを起こすことができなかった点も当時のアニメ雑誌に指摘されている。イデオンと対戦する敵側兵器の重機動メカもガンダムのモビルアーマーを発展させたような個性的なデザインではあったが、銃火器や刀などを持つモビルスーツに比べると無骨でヒーロー性に欠けるという指摘もあった。ただし後半に登場した重機動メカ・アディゴの戦闘シーンはアニメーター・板野一郎の作画によってミサイルの飛び交うスピード感溢れた派手なものとなり(俗にいう「板野サーカス」)、後のアニメに多大な影響を与えた。

放送終了後の劇場版公開時にアオシマから発売されたプラモデルだけはガンプラブームもあって好調に売り上げていたが、放送当時の関連商品は子供向けのぬり絵や文房具などがほとんどで、「胴体からプロペラを飛ばすイデオン」など、内容のシリアスさと噛み合わない商品が多く、本作の視聴者層には好まれなかった。当時はテレビキャラクター商品が子供向けなのは常識に近いことだったので致し方ないことではある。同様の作品ファンと商品のミスマッチは同時期の『宇宙海賊キャプテンハーロック』や『機動戦士ガンダム』などでも起きている。
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トミーの玩具は「技術のトミー」にふさわしいギミックに凝り、同社が鉄道模型で得た技術がふんだんに使われたものだったが、いかにもおもちゃ然としたデザインだったため売れなかった。また映像におけるイデオンが大きすぎたのが問題という意見もある。トミー関係者によると「ミニマムで40~50億円」の目標を達成することができず、最終的に大きく赤字になってしまった。

イデオンガンとイデオンソードの登場が遅すぎて、視聴者に殴る、蹴る以外に能のないロボという印象を与えてしまったため、という事情もある。これについて富野は、『闘将ダイモス』で同様にストーリーにこだわってロボが売れなかった長浜忠夫の苦悩する姿が重なり、「いまさらダイモスじゃあるまいし…」と落胆したという。 もう1つ打ち切りの大きな要因は、ハードすぎる物語に一部の視聴者やPTA等から苦情が寄せられたことである。以上のような背景から、TV版では「登場人物全滅」というプロットは実現せずに終わった。

TV版最終回は、イデが仕組んだカララ・ドバの対談が決裂、ドバがソロ・シップ殲滅を命じた所で唐突にイデが発動して両人類が滅亡するという内容だったが、これについて富野は後に「ソロ星で両人類が戦争を始めた時点で発動していてもおかしくは無く、TV版の最終回だって嘘じゃない」と述べている。

最終回の脚本を担当した松崎健一によると、彼が書いた第39話の脚本を富野がラスト2分を変更して最終回にしたそうである。「だから

2009年02月12日

米国探査衛星「ヴァイキング1号」が火星に到達

1944年
大東亜戦争終戦
1958年
米国探査衛星「ヴァイキング1号」が火星に到達。生物らしき影が映った地表写真が地球に送信される。後に火星全体に生息している「火星外起源種」であることが判明。
1966年
BETAとの和平交渉、諜報活動を目的とした対話計画「オルタネイティヴI」を発動。
1967年
国際恒久月面基地「プラトー1」にて地質調査チームが月面に火星に存在する生物と同種の存在を確認後、行方不明となる(サクロボスコ事件)。後にこの生物を「BETA」と命名。
1968年
「オルタネイティヴI」を破棄し、BETAの調査を目的とした生態調査計画「オルタネイティヴII」発動。
1973年4月19日
中国・新疆ウイグル自治区喀什(カシュガル)にBETAが搭乗した着陸ユニットが飛来。中国軍が国連軍の派遣の受け入れを拒否したため、後手に回り対処不可能な状況に陥る。この後、BETAの思考リーディングを目的とした思考解読計画「オルタネイティヴIII」を発動。
1974年7月6日
カナダ・サスカチュワン州アサバスカにBETAが搭乗した着陸ユニットが飛来するも、戦術核の集中運用で殲滅させる。この時点で喀什に飛来したBETAはヨーロッパ、西アジア、東アジア、中央アフリカへ侵攻し、大地もろとも都市を殲滅。
1995年
「オルタネイティヴIII」を接収し、人類救済計画「オルタネイティヴIV」を発動。
1998年
BETA日本侵攻。喀什から東進してきたBETAが北九州に上陸。九州・四国・中国・近畿がわずか一週間で壊滅。犠牲者は3600万人(日本人口の30%)にも上った。 首都京都が壊滅したため東京へ遷都。
1999年
BETAが関東侵攻。横浜までBETAの勢力下に置かれるが、大東亜連合軍・米軍を主力とする国連軍の本州奪還作戦により2発のG弾を使用することでBETAを退けることに成功。
イタ飯 タップ ナビトーチ レザー ひなづる メンド オラト 若き獅子 スイセン お山 シャシー フェタミン ブルージー ハリファ シンガ マニュ チリ バカンス スタバ ピアプ プラス シュード チェス シャトル ブレン プライス ビング 風神雷神 パライパ リンプ フォッ サラバード トシン バンド チロル もうげつ ラザニ ルサロ もみがら プルーフ アップ セクター ハーベ ローション インター ザクロ ブロカ ジェラー モルダビア ファー

BETA
BETA(ベータ)とは Beings of the Extra Terrestrial origin which is Adversary of human race の略で、人類に敵対的な地球外起源種のこと。人類と同様の炭素系生命体。火星や月は既にBETAに支配されており、地球では1973年のBETA来襲以来、28年間にも渡って人類との戦争が続いている。人類は再三BETAと接触しているが、生命体として認識されていない。BETAの言語やコミュニケーション手段は一切不明だが、高度な科学技術と、生物が生きる上で過酷な環境にも適応する能力を備えている。

地球に来た目的なども不明だが、『ハイヴ』と呼ばれるBETAの「巣」から外宇宙へシャトルのようなものを発射されているのが確認されている。地球周辺の宇宙空間も既にBETAが支配しているが、衛星軌道上の人工衛星や、ラグランジュ点で建造中の地球脱出用宇宙移民船などは攻撃を受けていないため、BETAは地球そのものに対して、なんらかの目的があると思われている。

地球上で確認されているのは以下の種。

光線属種
光線(レーザー)属種は重光線級と光線級の2種が確認されている。光線属種が放つレーザーは大気や気象条件で威力の減衰が期待できない程の高出力を持ち、捕捉されると逃げられず、戦術機の装甲でも数秒しかもたない。また、味方への誤射は絶対にしない。しかし、標的を補足し、照射準備にはいると動きが止まり、標的の追尾以外行動をとらない。一度レーザーを照射すると、再照射までエネルギーの充填時間がある。再照射までは光線級で12秒、重光線級で36秒かかる。
レーザー照射器官などを除き、光線級と重光線級との生物学的な共通点はない。
光線級
全長:1.2m/全幅:1.6m/全高:3m/俗名:ルクス
防御力、耐久力は低いが、高出力レーザーは30kmも離れた標的を撃ち落す程の威力を持つ。一般的に光線級という場合は、重光線級を含めた光線属種のことを指す。
重光線級
全長:15m/全幅:11m/全高:21m/俗名:マグヌス ルクス
高出力レーザーは高度500mで低空進入した飛行物体を約100km手前で撃ち落してしまう程。
要撃級
全長:19m/全幅:28m/全高:12m/最大全幅:39m/俗名:メデューム
要撃(グラップラー)級は頑強な前腕が特徴。敵戦力の主核の種族であり、その近接戦闘能力は非常に高く、その前腕で殴られると戦術機といえども一溜りもない。大きい割には俊敏であり旋回機動能力も高い。前腕部の硬度はモース硬度15以上、ダイヤモンド以上の硬さ誇る。
伊隅大尉曰く、「戦場でもっとも多く出会うお友達」。
突撃級
全長:18m/全幅:17m/全高:16m/俗名:ルイタウラ
突撃(デストロイヤー)級は破壊力が凄まじく、前方は甲殻に覆われているため防御力は高い。この甲殻も要撃級の前腕と同じ硬度を誇る。BETA戦では必ず先頭にいる。機動性や対人探知能力は全BETA中で最低。直線的な機動は優れており、最高時速は170kmにも上る。まともに正面からぶつかれば大破、即死は免れない。しかし、後方はほぼむき出しの状態であるため、防御力が低い。後方であれば36mm弾での攻撃が通用する。
要塞級
全長:52m/全幅:37m/全高:66m/俗名:グラヴィス
要塞(フォート)級は地球上で確認されているBETAの中では最大。10本足だが、体構造は昆虫に似ている。防御力、持久力共に高いが図体がでかい分、機動力は低い。尾節には全長50mもの触手がある。触手の先端(衝角)は何かに触れると強酸性溶解液が分泌される。この衝角もダイヤモンド以上に硬く、図体に似合わない器用さでこれを振り回してくるため、迂闊な接近は危険。その威力はたやすく戦術機を貫通するほど。
36mmではほとんど効果がなく、120mmでもダメージはあたえにくい。関節部を狙うのが望ましいとされている。
胎内から小型種が出現するという事例が報告されている。
小型種
小型種は3種が確認されている。特徴として対人探知能力は極めて高く、動きが俊敏。攻撃力も防御力も高くはないが、大群で攻めてくる。
戦車級
全長:4.4m/全幅:1.9m/全高:2.8m/俗名:エクウスペディス
戦車(タンク)級は軍用トラックと同じくらいの大きさで最高時速は80km程。歩兵の重機関銃でも対処できるが、とにかく数が異常。小型種の主力とも言える存在。顎が強く、戦術機の装甲も噛み砕いてしまう。集団で戦術機に取り付かれると一巻の終わり。ハイヴ坑内では多く出現する。ちなみに、もっとも多くの衛士を(戦術機ごと)喰らっているのがこのBETA種。
闘士級
全長:1.7m/全幅:1.5m/全高:2.5m/俗名:バルルスナリス
闘士(ウォーリアー)級は俊敏だが戦術機相手には敵わない。象の鼻の様な腕が特徴で、人間の頭をもぎ取る力を持っている。歩兵の小銃や拳銃も有効だが、その俊敏さ故、命中させるのは難しい。
兵士級
全長:1.2m/全幅:1.4m/全高:2.3m/俗名:ヴェナトル
兵士(ソルジャー)級は1995年に初めて確認された新種。対人探知能力は全BETA中で一番高い。俊敏で腕力も人間の数倍もある。しかし、全BETA中で一番弱いため、戦術機や機械化強化歩兵の相手ではない。兵士級のみ人類を原料として再利用をしている。特徴として「つぶらな瞳」をしている。ちなみに、人類を直接研究しているのもこの兵士級である。
他にも、未確認ではあるが、隔壁の様な属種やハイヴ内の坑道を掘り進んでいると見られる大型トンネル掘進機の様な属種も存在している。

母艦級
全長:1800m/全幅:176m/全高:176m/俗名:メガワーム
オリジナルハイヴのあ号標的寸前で確認された新種。桜花作戦後の正式命名以前は未確認大型種と呼称されていたが、一部から空母(キャリアー)級・列車(トレイン)級と呼ばれている。その大きさは規格外の存在であり、内部からは光線級、突撃級だけでなく今まで「ハイヴ内で出会う事は無い」と考えられていた要塞級まで出現させている。その様相は、まさに超大型シールドマシンである。因みに、地下を掘り進んできたBETAもコレであるらしい。

戦術機
戦術機(せんじゅつき)は対BETA戦用人型兵器のこと。正式には「戦術歩行戦闘機」という。それまでは航空機を中心にした制空権争いが戦闘の主体だったが、BETAの光線属種の出現により航空機が全く役に立たなくなった。その為、1974年に対BETA戦用に開発されたのが人型兵器「戦術機」である。現実に存在する戦闘機など(国産機は駆逐艦名など)の名称・愛称を利用している。戦闘機の愛称が使用されている事から、作中に登場する戦術機の電子制御伝達方式であるOBW(Operation By Wire)やOBL(Operation By Light)は戦闘機の電子制御伝達方式であるFBW(Fly By Wire)とFBL(Fly By Light)が元になっているものと思われる。

戦術機は第1世代機から第3世代機まで存在し、第1世代機では機動性より防御性、耐久性を重視した重装甲装備が特徴である。第2世代機では耐熱対弾複合装甲の使用を主要部に限定し、機体重量の軽量化と機動性の向上させている。第3世代機では新素材による装甲の軽量化やデータリンクの高速大容量化、機動性重視の設計が特徴で、それまでの第1、第2世代機と比べて機動性だけでなく、柔軟性、即応性も大幅に向上している。 なお開発国によって所有する兵装が違い、特に大きな違いは「日本製」の戦術機には「S-11」という強力な爆弾を自決用に使える様に搭載している。

帝国軍機は『陽炎』まで米軍機をライセンス生産した戦術機を使用しており、対BETA戦を意識した近接戦闘能力(特に長刀)と近接機動性を重視した設計が特徴。その設計思想を極端な形で発展させたのが『武御雷』である。

戦術機の開発史に関しては『月刊ホビージャパン』2008年1月号から連載されている『Tactical Surface Fighter in Action』に詳しい。

F-4「ファントム」
米国が開発した人類初の戦術機。いわゆる第1世代戦術機。1974年の実戦配備以来、日本など30ヶ国で採用され、派生機も数多く存在する。装備や主機などのマイナーチェンジを繰り返し、初採用から37年経っても国連軍や各国軍の中核を担っている。
F-4J「撃震」(げきしん)
米国軍F-4「ファントム」を帝国軍がライセンス生産した戦術機。「ファントム」同様マイナーチェンジを繰り返し、帝国軍で最も多く実戦配備されているほか、極東国連軍においてもかなりの数が配備されている。武達がUNLIMITEDで主に使用した。斯衛軍用にカスタマイズされたF-4J改「瑞鶴」(ずいかく)も存在する。
F-15「イーグル」
米国軍が「ファントム」をベースに開発した世界最強の第2世代戦術機。他にも各国で実戦配備されているため、様々な派生機が存在する。
F-15E「ストライク・イーグル」
F-15「イーグル」をベースに総合的に攻撃力を強化した派生機で、米国軍の主力となっている戦術機。国連軍でも活用されており作中では軌道降下兵団が使用している。高い性能に加え、最新の第3世代機と比べても何ら遜色のない稼働率と信頼性を誇り、12・5事件では不知火を主力とするクーデター軍を相手に、圧倒的に数が劣る状況で武達の退路を文字通り死守しきった。
F-15J 89式戦術歩行戦闘機「陽炎」(かげろう)
帝国軍が第3世代純国産戦術機開発へ向けたノウハウ収得の為、米国軍F-15「イーグル」をライセンス生産した戦術機。「撃震」同様、帝国軍内で多く実戦配備されている。
F-22A「ラプター」
米国軍の第3世代の最新鋭機で次期主力機。機動性や攻撃力・隠密性において圧倒的な性能を誇り、同時期の他の第3世代戦術機と比較しても追随を許さないほどの圧倒的な性能を有している。ステルス性が高くレーダー反射が小さいため、レーダーで捉えにくいのが特徴。そのステルス性は正面からの接近でさえレーダーで捕捉しにくいほどである。対BETA戦より対BETA戦後の人類兵器戦まで意識されて設計された戦術機。12・5事件では「不知火」を主力とする沙霧大尉以下クーデター軍に対し7:1という驚異的な撃墜比を見せた。
A-6J「海神」(わだつみ)
米国軍A-6「イントルーダー」をベースにした帝国軍の水陸両用戦術機。重装甲と固定武装が充実している。専用の潜水母艦の艦首に変形して接続されており、戦闘時には離艦して人型に戻る。
97式戦術歩行高等練習機「吹雪」(ふぶき)
帝国軍がF-15J「陽炎」をベースに第3世代戦術機の研究を目的に開発した試験機。「不知火」の完成を受けて訓練機に転用された。武たちがオルタネイティヴで初めて乗った訓練用戦術機でもある。性能的には「撃震」に勝っているため、後に「不知火」の量産パーツを流用した派生機種が実戦配備されたが、「撃震」の配備数や安定性などを理由に配備数は少ない。武達がUNLIMITEDでは主に練習機として、ALTERNATIVEでは中盤の任官するまで使用している。
94式戦術歩行戦闘機「不知火」(しらぬい)
1994年に帝国軍が開発した初の純国産戦術機。「陽炎」と「吹雪」をベースにした第3世代機。帝国本土防衛軍帝都防衛隊や富士教導隊などのエリート部隊に配備されている。国連軍では横浜基地A-01部隊にのみ配備されている。現在の戦術機の中では高いレベルの性能を持つが、12・5事件においては一部のエースパイロット搭乗機以外、米国軍最新鋭機「ラプター」に単機では歯が立たなかった。武達が中盤以降A-01部隊に配属されてから使用する機体。
00式戦術歩行戦闘機「武御雷」(たけみかづち)
F-4改造機「瑞鶴(ずいかく)」退役を控えて開発された帝国斯衛軍専用の第3世代純国産戦術機。途轍もなく高性能な戦術機であり、斯衛軍のシンボルともなっている。しかし、機体を稼動させるには高度な整備体制を必要とする上、斯衛軍の戦術思想や任務内容によるものか、自律誘導弾システム(ミサイルランチャー)も装備不可である等、兵器としては汎用性に欠ける点が見られる。
武たちの「吹雪」が搬入された際に月詠が冥夜専用の戦術機として持ってきた紫の武御雷(R)は元々、将軍専用機であるが、冥夜は受け取りを拒み、実戦では最後の作戦で使用したのみである。他にも月詠の紅い武御雷(F)や斯衛軍第19独立警護小隊の白い武御雷(A)、一般兵用の黒い武御雷(C)など、様々なカラーバリエーションが存在し、それに応じたチューンアップもなされている。具体的には冠位十二階の順番にならっており、将軍機である紫に至っては完全なワンオフチューンアップが成され、生体認証まで備える。また、後年に国連派遣仕様も存在するらしい。
XG-70b「凄乃皇弐型」(すさのおにがた)
米国のHI-MAERF(ハイマーフ)計画が生み出した戦略航空機動要塞の試作機。一般的な戦術機の約5倍もの大きさを誇る。備えられたムアコック・レヒテ型抗重力機関から発生するラザフォード場により、光線属種のレーザー照射を歪曲・無力化、さらに接近した物体を重力変動で粉砕するため、遠距離・近距離のどちらの攻撃にも対応できる。また、主砲には荷電粒子砲を装備している。単独でのハイヴ攻略の要になると期待されたが、ラザフォード場がコクピット内部にも発生し、通常のコンピュータの演算能力ではそれをキャンセルする事ができず人間が搭乗できない(試験時に搭乗したパイロットは全員ぶちまけられた「シチュー」みたいになった)欠陥兵器であった。加えて、G弾の完成により計画は完全にお蔵入りとなってしまった。後に帝国軍の仲介で米軍と国連軍との間で取引が行われ、オルタネイティヴ計画に接収される。オルタネイティヴIV内での呼称は、ウェポンシステム-110A。
XG-70d「凄乃皇四型」(すさのおよんがた)
HI-MAERF(ハイマーフ)計画とオルタネイティヴ計画の混血機。ハイヴへの単独侵攻、単独制圧を目的とした「弐型」の完成機であり、オリジナルハイヴ攻略用の切り札として横浜基地の最深部で調整が続けられていた。主砲の荷電粒子砲を始め、設計段階においては、2700mm電磁投射砲、120mm電磁速射砲、36mmチェーンガン等が装備されており、「弐型」の欠点の一つであった攻撃装備不足を解消している。その攻撃力は絶大。しかし、本編では諸事情によりほとんどの兵装は省略されてしまっている。また、ラザフォード場の制御問題がクリアされている為、人間の搭乗も可能となっている。ただし、搭乗できる人間にはかなり厳しい制限がある。なお、副砲であった120mm電磁投射砲の技術は帝国軍に提供され、FX計画の一端として戦術機が携帯できるように改修されている。

2009年01月26日

クルト・ユリアン・ヴァイル

クルト・ユリアン・ヴァイル(Kurt Julian Weill、英語風にカート・ウェイル、カート・ワイルと表記することも多い、1900年3月2日、 - 1950年4月3日)は、1920年代から生涯にわたって活躍しつづけたドイツの作曲家である。彼は、自身のコンサート用の作品の作曲をしつつ、演劇やオペラ・ミュージカルの作曲へ同等の力を注ぎ、多くの作品を残した。特にベルトルト・ブレヒトが台本に協力した『三文オペラ』で知られる。妻は女優ロッテ・レーニャ。

生涯と作品
デッサウにおいてユダヤ人の家系に生まれる。父はハザン。20歳の時にベルリンでフェルッチョ・ブゾーニに師事し、『交響曲第1番』を作曲した。その後グスタフ・マーラー、アルノルト・シェーンベルク、イーゴリ・ストラヴィンスキーの影響を受けた『弦楽四重奏曲』や『ヴァイオリンと管楽のための協奏曲』で成功を収めるが、彼の関心は劇場音楽や声楽へと向いて行った。1928年に戯曲家ベルトルト・ブレヒトとの共同作業によりオペレッタ『三文オペラ』の音楽を監修したことをきっかけに、1920年代後半より1930年代初頭には彼の劇場音楽や声楽作品が大衆の間で大流行し、アルバン・ベルク、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー、ダリウス・ミヨー、イーゴリ・ストラヴィンスキーからも称賛を受け、一躍有名になる。しかし、高名なユダヤ人作曲家であったことから、ナチスの当局から危険視されるようになり、後期の作品の発表時には、コンサートの会場でナチ党員によって組織された暴動が何度も起きた。実際、交響曲第二番の演奏会や「マハゴニー市の興亡」組曲("Aufstieg und Fall der Stadt Mahagonny" 、1930年)の演奏会、、『人質』("Die Burgschaft" 、1932年)、『鏡の湖』("Der Silbersee" 、1933年)などの舞台作品の上演は、ナチス当局による暴力的な干渉のため中断せざるをえなかった。

ドイツを離れる以外音楽活動を続ける道がなくなったヴァイルは、1933年にパリへ逃れることを余儀なくされた。この最初の亡命地ではブレヒト台本のバレエ『七つの大罪』を作曲している。1934年には最後の純器楽作品の『交響曲第2番』を完成させ、ブルーノ・ワルターの指揮でニューヨークとアムステルダムで演奏された。

その後1935年にアメリカ合衆国に移住した。アメリカではヨーロッパでのスタイルを捨て、ポピュラー音楽を研究し、数多くのミュージカル作品を残している。市民権を取得した1943年当時、ヴァイルにとって合衆国は夢に見る民主主義のファンタジーランドであった。遠洋定期船がニューヨーク港の中へ蒸気で進んでいたとき、ヴァイルはドイツに彼の生活のすべてを残したままだった。彼は作品の大部分が破壊されると信じた、そして文学を例外にすれば、ただごく稀に、いやいやながらドイツ語で話したり書いたりした。例えば、イスラエルにすでに避難している両親への手紙にドイツ語を用いた。

1950年、ニューヨークで死去。

彼は女優ロッテ・レーニャと二回結婚をした(1926年に一度、1933年に離婚したのち、1937年に再婚)。レーニャはヴァイルの仕事を大いに助け、そして彼の死後には、彼の音楽を高めるために、彼女自身がこれを引き受けた。彼女はクルト・ヴァイル財団を組織した。

彼の最もよく知られている作品はブレヒトと共同して書かれた「三文オペラ」であるが、それ自身ジョン・ゲイ、ヨハン・クリストフ・ペープシュの「乞食オペラ」(1727年)のリメイクであった。「三文オペラ」はヴァイルの最も有名な歌、「マック・ザ・ナイフ(匕首マッキーの殺し歌)」を含んでいる(ジャズにおいてはあまりにも多くのカヴァーがある。一番有名なものは1959年にボビー・ダーリンによるカヴァーがヒットしている)。ブレヒトとの合作として出来上がったワイルの仕事は成功したものの、目論見とは異なった結果に終わり、二人は決別した。ロッテ・レーニャによれば、ヴァイルは彼が「共産党宣言を音楽に合わせる」ことが不可能であったというコメントをした。

ヴァイルのアメリカの仕事の多くは、彼のドイツの努力より低い評価を受けているが、ブロードウェーのための彼の仕事は多くの人々に尊敬されている、そしてそこにはミュージカルとして賞賛される数々のショーも含まれている。 "Lady in the Dark" と "Love Life" の間にアメリカのミュージカルの発展における強い影響力を見ることができる。ヴァイル自身はアメリカの歌劇を作ることについての新しい方法を見いだそうと努力した、それは商業的であると同時に、芸術的な成功をおさめるものだった。 この方向での最も面白い試みはエルマー・ライスの演劇に基づいた「街の風景 ("Street Scene")」である。

クルト・ヴァイルの音楽に影響を受けた現代のミュージシャンには、レナード・コーエン、ドアーズ、トム・ウェイツ、デビッド・ボウイ、ニック・ケイブ、マリリン・マンソンとドレスデン・ドールズがある。

また1985年にリリースされたトリビュートアルバム "Lost in the Stars: The Music of Kurt Weill" には、このほかトッド・ラングレンやルー・リードなどが参加している。
ニュー エイジ メダリスト スポラ ぽち袋 スモーカー ブックレ リピート ハナイカダ チェーン レーター トゥース フェンス 大蔵大根 ろくまい サンパウロ とわだ シロップ たかね トロライト ブッサ ブレー シュノ ゴツコーラ チューブ インソール シルク 黒かぼ 愛宕柿 モーター ローンチ ゲリララ ヒッコリ ピタ最適 リシック サーチ恋路 オクイ パーカ シンクロ パンチャー バリティー ミャン シート フラン アップ ハンマ ティッシモ デトロ 万寿国 ブルー

作品のリスト
1916 – Ofrahs Lieder. Song cycle for voice and piano (Jehuda Halevi)
1917 – ピアノのための間奏曲 Intermezzo for piano
1918 – Maikaterlied, Abendlied for two sopranos and piano (texts by Otto Julius Bierbaum)
1918 – 弦楽四重奏曲ロ短調 String Quartet in B Minor
1919 – 管弦楽のための組曲ホ長調 Suite for Orchestra in E major
1920 – チェロとピアノのためのソナタ Sonata for Cello and Piano
1921 – Langsamer Fox und Algi-Song. Piece for solo piano and song for voice and piano
1921 – 交響曲第1番 Symphony No.1
1922 – Suite 'In the Old Style' (Divertimento) for orchestra and chorus op.5 (orchestrated and reconstructed by David Drew and Christopher Shaw)
1922 – Psalm VIII for a cappella chorus
1922 – Sinfonia Sacra: Fantasia, Passacaglia und Hymnus for orchestra, op. 6 (unfinished)
1922 – 魔力 Zaubernacht. Children's pantomime for solo soprano and chamber orchestra, op. 7
1923 – 弦楽四重奏のための2楽章 Two movements for String Quartet
1923 – 弦楽四重奏曲 String Quartet op. 8
1923 – クオドリベット Quodlibet. Suite for orchestra from the pantomime Zaubernacht, op. 9
1923 – Frauentanz: sieben Gedichte des Mittelalters for soprano and instrumental ensemble, op. 10
1923 – Recordare, op. 11, for SATB chorus and 3-part children's choir a cappella
1924 – ヴァイオリンと吹奏楽のための協奏曲 Concerto for Violin and Wind Ensemble, op. 12
1925 – Klops Lied. Song for voice, two piccolos and bassoon (on a traditional Berlin text Ich sitze da un' esse Klops)
1925 – Das Stundenbuch (Rainer Maria Rilke). Cycle of six songs for baritone and orchestra
1925 – Pantomime. Scene for mezzo-soprano, tenor, baritone, bass and wind instruments from the opera Der Protagonist
1926 – 主役 Der Protagonist (Opera in one act, text by Georg Kaiser)
1926 – Herzog Theodor von Gothland. Incidental music for a play by Christian Dietrich Grabbe
1927 – 新オルフェウス Der Neue Orpheus. Cantata for soprano, solo violin and orchestra, op.16 (text by Yvan Goll)
1927 – ロイヤル・パレス Royal Palace (Opera in one act, text by Yvan Goll)
1927 – マハゴニー Mahagonny (Songspiel) (Bertolt Brecht)
1927 – Bastille Music. Suite for wind ensemble arranged by David Drew (1975) from incidental music for Gustav III (1927), by August Strindberg
1927 – 森に死す Vom Tod im Wald. Ballad for bass voice and 10 wind instruments (Bertolt Brecht)
1928 – Berlin im Licht Song. March for military band (wind ensemble)
1928 – Leben Eduards des Zweiten von England. Incidental music for a play by Bertolt Brecht and Lion Feuchtwanger
1928 – Konjunktur. Incidental music for a play by Leo Lania
1928 – ロシア皇帝は写真を撮らせ給う Der Zar lässt sich photographieren (Opera in one act, text by Georg Kaiser)
1928 – 三文オペラ Die Dreigroschenoper, or the Threepenny Opera (Bertolt Brecht)
1928 – 小さな三文音楽 Kleine Dreigroschenmusik, Suite for wind orchestra, piano and percussion from 'Die Dreigroschenoper'
1928 – Zu Potsdam unter den Eichen for chorus a cappella or voice and piano Bertolt Brecht)
1928 – ベルリン・レクイエム Das Berliner Requiem. Small Cantata for three male voices and wind orchestra (Bertolt Brecht)
1929 – Die Legende vom toten Soldaten for chorus a cappella Bertolt Brecht)
1929 – リンドバーグの飛行 Der Lindberghflug (first version) with parts of the music by Paul Hindemith and lyrics by (Brecht)
1929 – ハッピー・エンド Happy End (Elisabeth Hauptmann and Bertolt Brecht)
1929 – Der Lindberghflug (second version). Cantata for tenor, baritone, and bass soloists,chorus and orchestra. Music entirely by Weill and lyrics by Bertolt Brecht
1930 – マハゴニー市の興亡 Aufstieg und Fall der Stadt Mahagonny, or Rise and Fall of the City of Mahagonny (Bertolt Brecht)
1930 – 承諾者 Der Jasager (Elisabeth Hauptmann and Bertolt Brecht)
1930 – Mann ist Mann (Bertolt Brecht). Incidental music for 1931 production
1932 – 人質 Die Bürgschaft, or The Pledge (Caspar Neher)
1933 – 銀の湖 Der Silbersee, or Silver Lake
1933 – 七つの大罪 Die sieben Todsünden, or The Seven Deadly Sins. Ballet chanté for voices and orchestra (Bertolt Brecht)
1934 – Marie galante (book and lyrics by Jacques Deval)
1934 – Suite panaméenne. Suite for chamber orchestra from Marie galante
1934 – 交響曲第2番 Symphony No. 2. Premiered by the Royal Concertgebouw conducted by Bruno Walter
1934 – Der Kuhhandel, or My Kingdom for a Cow (Robert Vambery)
1936 – Johnny Johnson (Paul Green)
1937 – The Eternal Road (Desmond Carter, first, unfinished version in German with a text by Franz Werfel)
1937 – Albumblatt für Erika. Unpublished and unperformed piano transcription of a section from The Eternal Road for Erika Neher
1938 – You and Me (lyrics by Sam Coslow and Johnny Burke). Score for the film by Fritz Lang
1938 – Davy Crockett. Songs from the musical play (unfinished) for voice and piano (Book and lyrics by H.R. Hays)
1938 – Two Folksongs of the New Palestine. Arrangements for voice and piano
1938 – ニッカーボッカー氏の休日 Knickerbocker Holiday (Maxwell Anderson)
1938 – Railroads on Parade (Edward Hungerford)
1939 – Madam, Will You Walk?. Incidental music for a play by Sidney Howard
1940 – Ballad of Magna Carta. Cantata for narrator and bass soloists, chorus and orchestra (Maxwell Anderson)
1941 – 闇の女 Lady in the Dark (Moss Hart and Ira Gershwin)
1941 – Fun to be Free Pageant
1942 – Mine Eyes Have Seen the Glory. Patriotic song arrangements by Weill for narrator, chorus, and orchestra
1943 – ヴィーナスのワンタッチ One Touch of Venus (Ogden Nash)
1943 – Where Do We Go from Here?. Film score (lyrics by Ira Gershwin)
1945 – The Firebrand of Florence (Ira Gershwin)
1945 – はるか谷間に Down in the Valley
1946 – Kiddush. Liturgical setting of Sanctification rite for cantor, chorus and organ
1947 – Four Walt Whitman Songs for voice and orchestra
1947 – ストリート・シーン Street Scene (Elmer Rice and Langston Hughes)
1947 – Hatikvah. Arrangement for orchestra by Weill of the Israeli National Anthem
1948 – Love Life (Alan Jay Lerner)
1949 – 星空に消えて Lost in the Stars (Maxwell Anderson)
1950 – ハックルベリー・フィン Huckleberry Finn. Song cycle for voice and piano (Maxwell Anderson)未完成.

2009年01月18日

ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公)

ルイ・シャルル・フィリップ・ラファエル・ドルレアン(全名:Louis Charles Philippe Raphaël d'Orléans, duc de Nemours, 1814年10月25日 - 1896年6月26日)は、フランスの王族。ヌムール公。フランス王ルイ・フィリップと王妃マリー・アメリーの次男。
ステンレス トマホーク バスク ダンプカー スポード プラーク スタミナ メード オーダー ケーブル 浮き桟 ミシガン マイカ トレビ レーン ベニトアイト リップ シェフ コムサット スプラ チオノ タイト サフー ナウシカ パラレル マッカー しらさぎ ミュージア カフェオ バート ベリー レガシー きくすい ジェジェ ダイオプ チャツ フレンチキ ソフト トラコーマ アンデス スエズ 五節の舞姫 ギョーザ ステミン イバル オード ラップ ローマ フェルミ ヘマタ


生涯
パリのパレ・ロワイヤルで誕生。12歳でシャッスール師団の大佐、1830年にサンテスプリ修道会のシュヴァリエとなった。1825年頃にルイ・シャルルの名はギリシャ国王の候補者として挙げられ、1831年2月にはベルギー国王の候補者となった(ルイ・シャルルはベルギー独立革命の際にフランス軍を率い、ネーデルラント連合王国からの分離独立を目指してベルギーへ入国していた)。アントウェルペン包囲戦でも活躍した。

1836年秋にはフランス領アルジェリア平定作戦の一環としてコンスタンティーヌへ上陸。1837年、1841年とアルジェリアへ派遣された。1840年、ザクセン=コーブルク=ゴータ家出身のヴィクトワールと結婚した。

1842年、長兄オルレアン公フェルディナンが急死すると、ヌムール公は自然と幼い甥、パリ伯フィリップの摂政役に就いたことから、立場の重要性が大いに増した。しかしヌムール公は国民の支持を得られず、不人気であった。1848年の2月革命でイギリスへ亡命した。

1871年にフランスへ帰国し、翌1872年3月に陸軍士官としての地位を回復した。退役後も、1881年まで赤十字社の総裁を務めた。パトリス・マクマオン大統領時代には、時折エリゼ宮へ姿を現したという。1896年にヴェルサイユで死去した。