ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte, 1769年8月15日 - 1821年5月5日)は革命期フランスの軍人・政治家で、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世(Napoleon I, 在位:1804年 - 1814年、1815年)。音訳漢字表記は拿破崙。古くは日本では奈破翁と表記された。イタリア系コルシカ人。
革命後のフランスをまとめあげ、帝政を敷き、ナポレオン戦争と呼ばれる戦争で全ヨーロッパを侵略し、席巻するも敗北し、その後ヨーロッパの秩序はウィーン体制に求められた。当時のイギリスの首相ウィリアム・ピットは、「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」とナポレオンを評した。一方でゲーテは「徳を求めたもののこれを見出せず、権力を掴むに至った」と評している。
今でもフランスを代表する英雄として抜群の知名度を誇る(彼を独裁者とみる向きもあり、反ナポレオン派も少なくないという)。
生い立ち [編集]
1769年、コルシカ島のアジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテ(フランス名シャルル・マリ・ボナパルト)と母マリア・レティツィアの間に、夭折した子供を除く8人の子供のうち2番目として生まれた。出生時の名前はナブリオーネ・ブュオナパルテ(コルシカ語: Nabulione Buonaparte)といい、ナブリオーネが姓をブオナパルテ(Buonaparte)からフランス風のボナパルト(Bonaparte)へと、名をナポレオンへと改称するのは、フランスで出世し始めてからのことである。
ブオナパルテ家はイタリアのロンバルディア州に起源を持つ古い地主であった。コルシカ島で判事をしていた父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争の指導者となるパスカル・パオリの副官を務めていたが、フランス側に転向し、この事によってフランス貴族と同じ権利を得た。そして身分とフランス本土への足がかりを得て、父カルロはナポレオンとナポレオンの兄ジュゼッペ(フランス名ジョゼフ)を連れてフランス本土に渡った。
ナポレオンは初め修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、すぐに国費で貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校に1779年に入学し、数学で抜群の成績をおさめたという。1784年にパリの陸軍士官学校に入学。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった。大砲を使った戦術は、後の彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11ヶ月で必要な課程を修了した事を考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11ヶ月での卒業は開校以来の最短記録であった。
この時期のエピソードとして、クラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話があり、このころから指揮官としての才能があったことが窺える。才覚の片鱗を見せる一方で、幼年時のナポレオンは、読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』に傾倒し、おとなしい性格だったという(コルシカ訛りを聞かれるのが嫌で無口になっていたともいわれる)。
軍人ナポレオン [編集]
1785年に砲兵士官として任官。1789年、フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていく。そうした中、ナポレオンは1792年に先のコルシカ独立戦争でコルシカ側が敗北したことによりフランス領となっていたコルシカ島に配属され、アジャクシオの衛兵隊中佐となるが、英国に逃れている独立派指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンと縁戚関係にもあるポッツォ・ディ・ボルゴらによってブオナパルテ家弾劾決議を下され、ナポレオンと家族は追放に近い逃避行によってマルセイユに移住することとなった。
マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄ジョゼフは、クラリー家の娘ジュリーと結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘デジレと恋仲となり、婚約する。この頃ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ポーケールの晩餐』を著して、当時のフランス政府(革命政府)の中心にいた有力者ロベスピエール等の知遇を得ていた(この小冊子はのちに、ロベスピエールとジャコバン派の独裁を支持するものであるとして、後述するナポレオン逮捕の口実ともなった)。
1793年、国民公会の議員の推薦を受け、ナポレオンはフランス軍大尉としてトゥーロンに赴任し、ただちに少佐に任命される。当時の欧州情勢としては、「フランス革命政府」対「反革命側(+市民革命の波及を恐れる第一次対仏大同盟諸国)」の図式があり、港町トゥーロンにはイギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御陣を敷いていた。革命後の混乱で人材の乏しいフランス革命政府側は、港への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害をこうむっているような状況であった。ここでナポレオンは、まずは港を見下ろすふたつの高地を奪取して、次にそこから敵艦隊を大砲で狙い撃ちにする、という作戦を進言する。司令官のデュゴミエはこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ(トゥーロン攻囲戦)。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により、当時24歳の彼は一挙に少将へと昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。また国民議会は政府の使節フーゴ・バスバイユが殺された事件をきっかけに教皇領に侵攻する決定を下すが、ナポレオンはこのとき司令官に任じられており戦いでも勝利をおさめた。
1794年に革命政府内でロベスピエールがテルミドールのクーデターで失脚して処刑され、ナポレオンはロベスピエールの弟オーギュスタンと繋がりがあったことなどにより逮捕、収監された。短期拘留であったものの、軍務もはずされ休職状態となってしまった。
しかし1795年、パリにおいて王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)が起こり、これに手を焼いた国民公会軍司令官ポール・バラスによってナポレオンは軍に再び登用され、首都の市街地で大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法をとり鎮圧に成功。これによってナポレオンは中将に昇進、国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとった。
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